text:前田啓介
梅田大雄(共著者)、播摩祐希(共著者)
TEC-J ST08 Working Groupメンバー
はじめに
この原稿を執筆している今日現在(2020年12月15日)、厚生労働省が発表している国内の新型コロナウイルス(以下、COVID-19)の感染者数は「18万162例、死亡者は2642名」とのことです。世界に目を向けると、Johns Hopkins Coronavirus Resource Centerの発表では「163万3272人」もの犠牲者が出ています。世界各地でワクチンの接種が始まったとはいえ、COVID-19の猛威が収束する気配はまったく見えません。今こそ、私たちの今後の生活をIT技術者として抜本的に考える必要があります。
TEC-JというIBM社内のテクニカル・コミュニティでは、さまざまなテーマで研究活動を行っています。その1つで筆者がリーダーを務める研究会(Working Group)では、東京大学の提言(*)も参考にしながら、コロナウイルスと共存する新しい働き方や生き方はどのようなテクノロジーにより実現されるのかを、昨年(2020年)5月から研究しています。活動を開始して7カ月ですが、その成果を基に本稿を執筆しました。
研究の初期段階にフレームワーク作り
研究会では「The world after the COVID-19 crisis」と研究のテーマを銘打ったものの、既往研究のどこを調査すればよいかもわからず、研究会を立ち上げた当初はかなり苦労しました。悩んだ末に我々が試みたのは、次のような進め方です。
Step-1
最初に、参加メンバー全員(最終的に16名)に各々が考える「After COVID-19の世界」について意見を徴収しました。その際に採用したのは、「Rose×Thorn×Bud(ローズ・ソーン・バッド)」というデザイン・シンキングの手法です。Rose(バラ=ポジティブ)、Thorn(トゲ=ネガティブ)、Bud(つぼみ=機会)という3つの色のポストイットを使い、After COVID-19の世界がどうなるか、どうなって欲しいか、どうなって欲しくないか、を書き出しました。研究会は3密を避けるために完全にリモートで実施。これにはWeb会議アプリケーションはもとより、コラボレーションツールの「Mural」の活用が有効でした(図表1)。
図表1 Muralを使い、書き出したRose、Thorn、Budを振り分けた
Step-2
次に、マップを作成しました。以下のようなマップです。
・縦軸に、IBMが提唱するペルソナ分析による11分類のワークスタイルに、我々のアイデアとして「新入社員」を加えた12分類を定義
・横軸に、ヒトの1日の生活のサイクルを定義(図表2)
IBMのペルソナ分類とは、従業員の業務を8タイプ11種類に分けたもので、情報システムに関するIBMの方針・施策を策定するGlobal CIO Officeによる定義です。このマップを使い、Step-1のディスカッションで行った内容を整理しました。
図表2-1 Muralを使い、After COVID-19の世界をディスカッション
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図表2-2 作成したマップ
Step-3
上記に加えて、文化人類学者・川喜田二郎先生のKJ法による分析も行いました。そしてさらにIBMの「事業継続のフレームワーク」や「働き方改革を実現する6要素」(*) も反映させて、研究の土台となるフレームワークを完成させました(図表3)。
図表3-1 New normal生活の4象限の作成
図表3-2 New normal生活の4象限
そのフレームワークを我々は、「New Normal生活の4象限(以下、NN4象限)」と呼んでいます。4象限の上半分は「Real(現実)世界」、下半分は「Virtual(仮想)世界」で、右半分は仕事や勉強をしている「ON状態」、左半分は余暇やプライベートとして過ごす「OFF状態」です。
読者の皆様も、リモート会議ツールを使ってVirtualな会議に参加したことがあると思います。その状態は、第4象限の「Virtual-ON」の状態です。また、自宅の食卓上でVirtualな会議に参加し、会議が終わると缶ビールをプシュと開けて一息つくという経験をされた方も多いと思います。この状態の遷移は、第4象限の「Virtual-ON」から第2象限の「Real-OFF」への切り替わりと捉えることができます。
第3象限の「Virtual-OFF」は、スマホやパソコンなどでサブスクリプション・サービスの映画を観る、というような状態です。映画館に行って映画を観るのではなく、映画館をIT端末で仮想化して観ることから「Virtual-OFF」と定義しました。また、この仮想化には、物理的な映画館の仮想化だけにとどまらず、映画の進行をユーザーが自由にコントロールできるという、「映画の上映時間やその表出順番の仮想化」も含まれています。
4象限を行き来するニューノーマルのワークスタイル
NN4象限の4つの象限間を行き来する(切り替わる)ワークシーンを分類すると、以下の6種類になります。
「切り替え」のタイポロジー(分類) | COVID-19前後の発生頻度等の考察 | ITによる支援の強度 |
---|---|---|
Real-ON ⇆ Real-OFF | Before COVID-19の時代も頻繁に経験していた | 微弱 |
Vurltual-ON ⇆ Real-ON | Before COVID-19の時代も頻繁に経験していた | 中規模 |
Vurltual-OFF ⇆ Vurltual-ON | ゲーマーのような特殊ロールのみ経験 | 大規模 |
Vurltual-OFF ⇆ Real-OFF | Before COVID-19の時代も頻繁に経験していた | 中規模 |
Real-ON ⇆ Vurltual-OFF | 限定したワークスタイル(業務中ゲーム) のみ発生 | 中規模 |
Real-OFF ⇆ Vurltual-ON | With COVID-19の時代より経験 | 大規模 |
「Virtual-ON ←→ Real-ON」の切り替えシーンは、本社の自席でWeb会議に参加し、終了後にリアルの会議室で会議を行うというようなケースです。一方、「Virtual-OFF ←→ Virtual-ON」の切り替えシーンは、Web会議への参加中にスマートフェンで「ツムツム」のようなゲームをするようなケースです。今までの価値観からするととても褒められるようなワークスタイルではありませんが、今後はこうしたワークシーンも許容するような意識変革が必要だと考えました。
NN4象限を基にしたNew Normal世界のユースケースの検討から、以下の4つの気づきを得ることができました。
・Real-ONの世界にも変化がある
・Real-ONからVirtual-ONへの大きな進化が生まれる
・ITサービス・プラットフォームが不可欠となる
・ヒトには新しい対応力が求められる
Real-ONの世界にも変化がある
COVID-19前後の私たちの生活を検討すると、Real世界の物事は、可能なものから徐々にVirtual化していることがわかります。その流れは、次の3つに分類可能です。
・Realとして残るもの
・Realとして残したいもの
・新たなReal
「Realとして残るもの」については、特別なサービスへと進化する、という仮説を立てました(図表4)。New Normalの世界でも残り続けるのは、命にかかわる物事、衣食住に関する物事、物理的なモノを扱う物事でしょう。つまり、生きるために「必須のモノ・コト」であり、Virtualでの置き換えが難しいものです。
図表4 残るRealと加速するVirtual化
たとえば、患者は医師と直接対面することによって、医師の人柄などを知りつつ安心して診察を受けることができます。心音や呼吸音を聞いて判断する医療行為や、患者の筋肉に触れることによって処置を行う理学療法などは、今の技術ではリモートで置き換え得ない領域でしょう。
RealはVirtualよりも人との距離感や親近感を得やすいメリットがあります。我々が考えた「Realとして残したいもの」は、そうした人との距離感や親近感が特に重要になるモノ・コトです。
「新たなReal」としては、新しい価値をもつ「Real New Service」の登場が考えられます。たとえば、テーマパークは今よりもいっそう貴重なReal体験を得られる場となり、特別感の提供がさらに求められると思われます。宅配サービスは現在もエッセンシャル・ワーカーとして捉えられていますが、今後は「執事やコンシェルジュのような気配りをしてくれる」、より付加価値を高めたサービスが求められるでしょう。目的地に「実際に行く」行為と、ヒトと「実際に会う」行為が、とても重要で貴重な体験になるはずです。
Real-ONからVirtual-ONへの大きな進化が生まれる
Virtual技術の活用は、今後はReal世界の代用・補完だけにとどまらないでしょう。それだけではなく、Real以上の機能を備えたVirtual技術が、現状のギャップを解消しながら私たちの生活を変える、という仮説を立てました。Realの代用・補完ではなく、新たな創造・進化によって生まれるVirtual独自の世界です。
たとえば、eスポーツやタイムレス・オフィス、コンピュータの自律保守などは、Realの代用や補完ではないVirtual独自の世界の具体例であると考えられます。
ここで「タイムレス・オフィス」について補足が必要かと思います。リモート会議ツールは、働く「場」を仮想化ました。特定の場所にいなければならないという物理的な制約から私たちを開放してくれたわけです。しかしその一方、「時間」の制約からは解放してくれていません。あるリモート会議に参加したら、同時開催の別の会議には参加できません。
どうしたら「時間」の制約から解放されるでしょうか。それを考えた結果、たどり着いたのが「デジタル・クローン」でした。昔の日本のアニメの「コピーロボット」を思い描いていただければ理解しやすいかと思います。
デジタル・クローン技術が実用化されると、ある業務を行いながら、他の案件の資料作成や会議への出席が可能になります。もちろん、その時間帯に仕事をせずに、Realの「私」はリフレッシュしたり創造性を磨くなどの活動を行うこともできます。さらに技術が進化すれば、自らの進化によって「私の写し」としてのデジタル・クローンも進化する、とも考えました。そうした働き方や余暇の過ごし方を、私たちの研究会では「タイムレス・オフィス」と定義したわけです。
ちなみに余談となりますが、この先の世界として、以下を検討しました。
デジタル・クローンは、「デジタル」ゆえに組み合わせや追加・置き換えが可能なはずです。すると自分と他人のいいとこ取りのデジタル・クローンを作ることができ、本来2人でなければ解決できない作業を1つのデジタル・クローンで解決できるのではないか、その延長上には最強のデジタル・クローンの誕生もあるのではないか、と想像しました。そのデジテル・クローンを超えた技術を「デジタル・クラウン」と私たちは名づけました。イメージとしては、アニメの「コピーロボット」にクラウン(王冠)を被せたような感じです。想像すると可愛く思えます。
またデジタル・クローンは、ガートナー社が提唱する「ハイパーオートメーション」の概念に近いと思います。ハイパーオートメーションは、プロセスに「発見、分析、再評価」を含めていて、我々の考えに近似しています。同じガートナー社の「先進テクノロジのハイプ・サイクル:2020年」(*)中の「人のデジタル・ツイン」も近い概念ですが、「私」の代替としての機能がどこまでReal世界の「私」を支援できるかについては、今後検証を深めたいと考えています。
ITサービス・プラットフォームが不可欠となる
以上のように検討を進めた結果、New Normalの世界を成立させるには、ITによる支援が必須であることを改めて認識しました。ただし、ITという言葉だけでは曖昧なので、研究会では、New Normalの世界全体を支援するITを「ITサービス・プラットフォーム」と定義することにしました。ITサービス・プラットフォームは、エンドのデバイスからネットワーク、アプリケーション、ハードウェア、ファシリティなどまでを含むコンピューティング環境全体です。
ITサービス・プラットフォームが実装されると、ヒトは膨大なデータに囲まれて生活します。それを有効に活用できれば、「データの明るい民主化」が実現できると考えられます。
「データの明るい民主化」とは、さまざまなオープンデータ(天気、交通情報など)とヒトが作り出したデータを合わせることによって、そのヒトにとって重要な意思決定を自らの意思によって客観的に行える、ということを意味します。
そして「データの明るい民主化」が進化すると、ヒトは意識することなく自らの振る舞い(活動状況)をトレースでき、置かれた環境とその先の行動を自己分析できるようになります。
1つ例を示します。今まで社会の仕組みを変えるための選挙や投票など、人間の意思決定によって成り立つ制度は、その重要性ゆえにさまざまな工夫がなされてきました。「データの明るい民主化」が進めば、意思決定の形式とその実施の頻度がこれまでよりも大きく進化する可能性が秘められています。近い将来には、制度と取り組みに対する意見聴取がオンライン投票によって頻繁に実施され、社会を大きく変える原動力になるかもしれません。
「ニューノーマルの世界へ向けて私たちはどのように進化すべきか」後編は、こちらでお読みいただけます。
第一著者
前田 啓介 氏
日本アイ・ビー・エム株式会社
GTS Site and Facility services、部長
Technical Specialist Level.3 Thought Leader
日本大学生産工学部建築工学科非常勤講師
TEC-Jにて2015から2017にかけてSC(steering committee team)として活動
ITLMCサブリーダー、TVC2017/2018年リーダー
建築デザイン事務所を2社経験し、3社目として日本IBMに入社。銀行のATM端末を搭載した特殊車両の開発から、データーセンターのファシリティ・コンサルティング、各種IT関連先進的ファシリティの設計および施工のPMを数多く経験。日本最大のメガソーラー発電所プロジェクトのIT系設備設計施工の技術責任者等を歴任。日本大学をはじめ数多くの大学で先進的建築デザインやファシリティ・コンサルティング、経営管理を講義中。
本記事は前田啓介氏個人の見解であり、IBMの立場、戦略、意見を代表するものではありません。
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共著者
梅田 大雄氏
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社
Technical Specialist Level.2 Expert
IT業界での経験は18年あり、直近15年はTechnical Specialistとして従事。2021年1月現在、お客様システムのリモート運用を行う要員集約型センター立ち上げの任に当たる。以前は製造業のお客様を担当し、自動化適用の取り組みをリードした。
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共著者
播摩 祐希氏
日本アイ・ビー・エム テクニカル・ソリューション株式会社
Technical Specialist Level.1 Experienced
メガバンク様でのSystem z系ソフトウェア保守を経て、日本最大級のメガソーラー発電所建設プロジェクトやデータセンター移転プロジェクト等にTechnical Specialistとして従事。2021年1月現在、TSOL社長およびエグゼクティブ補佐役としてTSOLの会社運営にも携わっている。
当サイトでは、TEC-Jメンバーによる技術解説・コラムを掲載しています。
TEC-J技術記事:https://www.imagazine.co.jp/tec-j/
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