株式会社ウエスト・ブリッジの西橋でございます。
まだまだ緊急事態宣言下ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
前回は、「まずシステムの棚卸しなどで現状を確認し、今できることを見極め、事業継続対策の第一歩に」、そして「最終手段の手作業も事業継続計画に組み込む」というようなお話をしました。
その中で、システム復旧作業と並行して手作業による運用も視野に入れることの重要性に触れた「3.11時の手書きの航空チケット」について、コラムを読まれた方々から「3.11時の仙台での体験の話を聞きたい」とのご意見を頂戴しました。
そこで当時のことに少し触れることで、今後の皆様の災害対策、とくに被災時のお役に立てていただければと思います。
まずその前に、東日本大震災発生時に仙台で被災したことで、私が得た教訓を以下にご紹介します。
即時に安否連絡:送る内容、即送る手順、連絡する相手の優先度など事前準備が必要
地の利を活かす(当時、地元営業と同行):出張時はなるべく徒歩で行動、アナログの方位磁石を携帯する
複数人の生きる知恵:情報が少なく混乱する中、複数の知恵・知識でBetterな判断
自動車など移動手段の確保:通信の輻輳、ガソリン、食料、飲み水など環境の好転に有効
公衆電話:最近設置場所が減少しているので事前確認が必要。10円玉は必ず携帯(テレカは劣化に注意)
防寒:カバンに1枚アルミシートを携帯
控えメモ:紙のメモに重要事項を控えて携帯
最近では「予備マスク」「消毒関連」なども要携帯で、LEDライト付ボールペンも常に持っています。今も私はこれらを意識して行動しています。ご参考になればと。
東日本大震災の発生時
仙台にいて経験したこと
では当時の状況を含めてお話したいと思います。2011年3月11日14時46分、私は出張先の仙台市若林区のファミレスでお客様訪問前の打合わせをしていました。
前々日には震度5強の地震が仙台で発生しており、当日の移動では地震などによる遅延の心配もあり、念のために前日入りしていました(11日早朝にPoCの最終検収だったので)。
10日夕方からパートナーと明朝のPoC最終検収を確認する中、「昨日(9日)は震度5強があったので、しばらく大きな揺れは来ませんよ」などと皆が口にし、安全であることを普通に確信していました。
翌11日のPoCも無事終了し、「よし、来週には選定確定!」と高評価、好印象を胸に、次の訪問先へ移動となりました。
アポイントの時間まで少しあったので、昨日のファミレスに入り、それぞれコーヒーを1杯口にした時、パートナーの1人の携帯(当時は皆まだスマホではなく、携帯が主流)が鳴り響きました。
私の「おい、マナーモードにせえよ」に、「すんません。でもこの音、止まらないんです」と戸惑う彼の声。
そうです、あの何とも表現のしようがない「この音」、緊急地震速報の警報音です。おそらく当時のほとんどの人が、大地震の前には「この音」が鳴り響くことを知らなかったのではないでしょうか。
その「止まらないんです」の直後、ユサユサ、ミシッ、「ドーーーン!」。
店内に悲鳴が上がり、厨房あたりで皿やコップの割れる音が響く中、すぐに2度目の「ドカーーーン!」。さすがにこの時は、全員(3名)が一斉に下に潜り、テーブルの脚につかまりました。さらに続けて、3度目の「ドカーン!」。
この時、地震の擬音に対する私のイメージが変わりました。あれは爆発です。重なり合ったプレート同士が我慢できず、ついに片方のプレートが弾けて跳ね上がったのでは、と思うような本当に恐ろしい大音響でした。
とくに大地に近いテーブルの脚にしがみついていたので、強烈な音として記憶に残っているのかと思います。
「この地震はただ事ではない」と思い(感覚ですが、1分以上揺れていたように思います)、通信が使えなくなる前に、まずは家族にメールをと、3名とも「俺、大丈夫!」のシンプルメールを家族へ送りました。
後日談ですが、このテーブルの下では、各人が「ファミレスの大きなガラス窓が割れないか」「厨房から火災が起こらないか」「この揺れ一生続く? この世の終わり?」と3者3様に震えていたようです。
「おい、この揺れが少しでも収まったら、外に出るぞ」という私に、「出ましょう」との声。3人それぞれがPCをカバンに放り込み、出口へ猛ダッシュ。
駐車場に出るや、周りは停電で信号は停止、交差点にはたくさんの車、向かいの大きなお寺さんの瓦はほぼ落下、見上げると天候は急変して曇天から降雪に、そしてたくさんのカラスや鳩などの鳥たちが、仙台駅方面を目指して飛んでいきます。彼らは「津波」の襲来を感じていたのかもしれません。
さらに大きな揺れがあり、駐車場が波を打ち、停車位置がズレる車もあり、この揺れはいつまで続くんだろう、と恐怖心でいっぱいでした。
すでに3人の携帯(3人とも違うキャリアを利用)は繋がらず、乗り込んだ営業車のラジオから情報収集。「まずはここから移動しよう」とのことで、パートナーの地元の営業マンの機転で、「停電で信号も止まっていて近辺の交差点は渋滞、踏切もダメなので、高架をくぐり、なるべく裏道で仙台駅に向かいます」と。
彼は、我々東京組を急ぎ新幹線にと考えてくれていたようです。地元営業マンが同行してくれたおかげで、地の利があったと感謝しています。
そして無事に仙台駅に到着。周辺には徒歩で帰宅する人たちの姿が目立ち、建物への被害はほとんど感じられませんでした。
実は仙台駅へ向かったのには、もう1つの理由がありました。午前中のPoC後、先に新幹線で帰路に着いたSE1名を確保することでした。大規模災害下に発生する輻輳などにより、携帯やメールは使えない状況だったので、これにはかなり時間を要しました。やっと連絡がついたのは、仙台駅に到着して4時間が経過した21時過ぎでした。
結局、新幹線はこの夜運休とわかり、我々4名は営業車中泊となりました(まだこのときは翌日に新幹線は動くと考えていました)。
4人で協議し、「トイレがそばにあり、長時間駐車でき、落下物などの危険がなく、地盤がしっかりした場所に」と考え、「昔からあるお城は、地震に強い地盤に建てられているだろう。石垣は要注意だが、かなり広い駐車場もある。もちろんトイレも(断水で水が流れない状況でしたが)」ということで、伊達公居城の歴史ある青葉城の駐車場のど真ん中に移動しました。
この車中泊は、仙台の営業マンの我々東京組への気遣いによるもので感謝しています。本人は「自分も1人になるのは心細かったので」とも。またこの営業車泊は、「充電できる」という安心感があり、不安を和らげてくれたと思います。
しかし、営業車のガソリンはこの時すでに4分の1程度。このあとガソリン補給も見通せないため、燃料節約を決断。時間を分けてエンジンを切ることになり、寒さに耐えながらの車中泊となりました。
前日入りだったので、前日着ていた服や、搬入後に残っていたPCのダンボールにくるまりながら、寒さをしのぎました。さすがに仙台の3月はまだまだ寒く、あまり眠れませんでした。この経験から、私はアルミ箔の防寒シートを移動時のカバンなどに入れるようにしています。
眠れないまま窓の外に目をやると、周りに灯りのついている場所があることに気づきました。そこで我々4名はまたまた協議し、「公共機関などは自家発電による電気の供給があるのでは」となり、灯りのある方向へ移動することになりました。外は真っ暗なので、灯りを探すのは簡単でした。
これも後日談ですが、あまりに寒くて、移動するとガソリンは消費するものの、寒さはしのげるとの思いも皆にあったようです。またお城の駐車場内トイレは紙がなく、これも再度の移動を決断した理由です。
そして灯りが近づくにつれ、そこが「消防署」であるとわかりました。車を止め、各人交代で消防署内へ。入口周辺は開放され、すでに避難している方々もいます。署内の自販機の缶コーヒーで水分補給(水・お茶は売り切れでした)、公衆電話が目に入ったので、すでに深夜2時30分を過ぎていましたが自宅へ電話しました。ファミレスから即送っていた「俺、大丈夫」メールが届いていたので、私への安否の心配はしていなかったようです。
この時、公衆電話から入れた10円が戻り、「緊急時、公衆電話は無料」、ただし「電話するには、先に10円投入」ということを知りました。50歳を越えて(当時)、学びました。
各人が車中に戻ると、地元の営業マンが「消防署の隣はガソリンスタンドですよね。電気もついているし、何台か給油しているようです。この車も給油できるかな」と。
そうなんです。気づいてはいたのですが、緊急時なので民間の営業車も給油できると皆考えていたようで、チャレンジしてみようとガソリンスタンドへ向かいました。そしてなんと、「満タン」に!
さらに車内にあったiPadが繋がるようになり、ラジオだけでの情報がインターネットからも入手可能になりました。まずは明日の交通機関情報などを収集し、山形空港は明朝から稼働という情報を入手しました。
すると地元の営業マンが、「飛ぶかどうかわかりませんが、ガソリンも満タンだし、山形空港まで行きますか」と。これも地元ゆえに、山形空港までの距離がわかるから出たアイデアでした。これまた感謝です。
仙台から山形空港へ
ようやく希望が見えてきた
2時間ほど仮眠を取ったあと、8時頃に山形空港へ移動開始。仮眠は意図してではなく、皆満タンのガソリンで車内も暖かく、少し希望が沸いてきたこともあり、眠ってしまったのだと思います。
途中、支援に向かう自衛隊の車両数十台とすれ違い、県境を越えたあたりから各人の携帯が「ブーーン」と唸り出しました。
携帯を見ると大量のメールが着信し、アンテナは3本立っています。仙台市内でも時間をおいてまとまったメールが届いてはいましたが、これほどまとまった量とアンテナ3本には驚きました。おそらく輻輳の圏外(安定した通信環境)に出たのだと思いました。
ここで職場に安否状況の報告メールと、家族にも再度のメールを送信できました。あとで目の当たりにする津波の襲来で、東北太平洋側などの通信施設が甚大な被害を受けた影響かと感じました。
仙台から山形への道中は、我々だけが走っているのかと思うほどの交通量の少なさで、無事に山形空港にたどり着きました。たしか12日の10時前だったと思います。
到着直後の空港はかなりの人で、昨日の夕方からの停電で欠航した席を今朝の便で確保したいと来ていたようでした。
館内もまだ停電していたので、電光掲示板に案内もなく、手書きの掲示板に運休・随時対応中などの案内のみ。チケットカウンターも閉鎖状態でした。
ここで仙台の営業マンとは別行動となりました。彼はまずは山形で再度ガソリンを入れ、山形の知人のところに向かったようです。あらためて感謝です。
なぜかレストランは開いていて、暖かい蕎麦だけは出せるとのこと。久々にお腹に入れる暖かいもので、我々3名は腹ごしらえをし、ロビーに戻ると、館内が明るくなって停電解消となりました。
ここでようやく職場へ電話連絡を入れ、正式に報告できました。後日談ですが、社内で私だけが20時間以上安否不明だったとのことでした。
それと同時に館内の大型テレビも稼働し、そこで初めて「津波」を目にしました。我々はラジオの音声のみの情報で「〇〇mの津波」を知っていましたが、想像がつきませんでした。もっと驚いたのは、我々が昨日被災したファミレスのある若林区が津波により大打撃を受けている映像でした。
なんとも表現できない複雑な思いでした。これも後日談ですが、若林区は地震計も流されて震度計測ができず、当日の震度を公表できなかったとのこと。後に地震計が見つかり、計測したところ「震度7」だったと発表されました。
そして館内放送が流れ、遅れていた午前の便が随時出発するということで、館内に歓声が沸き起こりました。しかし先ほど「津波」の画像を目の当たりにした我々は複雑でした。
それでも気を取り直し、空席待ちでチケットカウンターに並びましたが、ことごとく外れ、今日は館内で泊りかと諦めかけた時、「臨時便」が出るというアナウンス(羽田でなく伊丹行き)が流れました。すぐに予約の列へ向かい、我々3名も搭乗できることになりました。
館内の停電は解消されたのですが、購入に必要なシステムが稼働しておらず、予約もトランシーバのようなもので外部と連絡を取り合いながら、ハンディの専用端末に表示された情報で対応していました。
そしてここでまた大問題が! 見ると、先約の皆さんは現金で支払い中。我々は顔を見合わせながら財布の中を確認したところ、結局3人で1万円弱しか持っておらず、おそるおそる「現金3人で1万円しかないので、カードはだめですか」と。
すると窓口の方から、「大丈夫です。緊急事態なので伊丹のカウンターでカード決済対応が可能です」と言われました。救われた気がしました。当然ですが、伊丹空港に着陸し3人それぞれカードで決済を済ませました。
考えて、計画して、訓練して、見直して、
そして実際の緊急時に活きる
長くなりましたが、このような数々のプロセスを経て「発券」されたのが、この「手書きの航空チケット」でした。
便名、座席、カタカナ氏名、支払方法などマジックとボールペンで書かれた半券。この時、「緊急時の手作業による運用」に、ただただ感心させられました。
考えて、計画して、訓練して、見直して、そして実際の緊急時に活きる!
これは簡単なことじゃない、とあらためて思います。ちなみに、その「手書きの航空チケット」の半券は、今も私の出張時のお守りとして携帯しています。
これまでシステム関係者として二重化・バックアップ・安否確認などのツール、データセンター提案、クラウド提案、システムの災害対策やBCPをご支援してきた私でしたが、この3.11の出来事での経験は(うまく表現できませんが)、私の心に大きな変化を起こしました。
この時のこと(被災直後の教訓)が少しでも皆様のお役に立てるよう、引き続きご提案・ご支援させていただければと思います。またどこかで、BCPセミナーなどでお会いできればと。
東日本大震災で被災された皆様のハードウェア面、メンタル面の復興・回復は道半ばかと思います。少しでも「前へ」進みますように、応援を続けていきたいと思います。
今回の話は個人の感覚と記憶によるものなので、時間、表記、表現など至らぬ点がありましたらご容赦ください。
追伸
五輪開催とコロナ対策、どちらも良策で成果がでますように。まだまだワクチン待ちですが、皆さん健康一番で! ワクチン打って乾杯したいですね。
デバッグの後のちょっと一杯