情報の繁栄は
注意力の貧困を招く
皆さん、こんにちは。日本を元気にする「ロゴスとフィシスの旅」、第13回です。
1971年、ハーバード・サイモンは、とある会合のゲスト・スピーカーとして招かれました。「情報過多社会における組織のあり方」についての講演のなかで、彼は「情報過多社会」とはどんな社会なのか、次のように話しています。
昨年のイースターのときに、隣人がつがいのウサギを飼い始めました。オスとメス一匹ずつだったのですが、今やウサギ過多社会になっています。ウサギの生存に食料は欠かせないため、レタスを大量に用意しなければなりません。ウサギ「過多」社会は、レタス「不足」社会なのです。
同様に、情報過多の社会では「情報」によって消費されるものが不足していくことになります。情報は何を食べるのでしょうか。それは受け手の注意力です。従って情報の繁栄は、注意力の貧困を招きます。そこで私たちは注意力を、あふれかえる情報源に対して、適切に割り振らなければなりません。
この希少な資源ともいえる注意力が、どれだけ情報によって消費されたかを示す方法として、1つのメッセージに対して受け手がどれだけ時間を費やしたかで測ることを提案しています。
その際に念頭に入れておかなければならないのは、人間は基本的にシリアル・デバイスである、つまり1度に1つのことしか注力できないことだといいます。それは、当時最先端であったタイムシェアリング・システムが、複数の仕事を同時にこなしているように見えて、実はCPUは一瞬には1つのタスクしか処理できないことと同じです。
では、情報過多社会で、希少資源である注意力を有効に使うにはどうしたらいいのでしょうか。その問いに、サイモンは次のように答えています。
「情報システム(それはコンピュータであったり、新しい組織であったりしますが)は、受け取った情報量を吸収し、圧縮してアウトプットするように設計すべきである。つまり、喋る量よりもより多く聞き、考えるということだ」と。
ハーバード・サイモンは、もともと経営学や組織論が専門で、ノーベル賞も経済学の分野で受賞した人ですが、IT業界では『システムの科学』(*1)の著者として、また人工知能の研究に寄与した人として知られています。
会合のテーマは「コンピュータ、コミュニケーション、そして公共の利益」でしたが、このテーマの背景には、テクノロジー文明の複雑な問題とそれによって引き起こされる身体的、精神的なトラウマをどう克服するかという問題意識がありました。今から40年以上前のことですが、この問題は解決されるどころか、ますます真剣に取り組むべきものになっています。
アテンション(注目・関心)の
争奪戦が進行している
さて、時代は下り現代はどうでしょうか。サイモンの言う「情報過多社会」がまさに進化し続けています。パーソナル・コンピュータが普及した1990年代、インターネットが本格的に使われ始めた2000年代、スマホが当たり前になり、今まで年賀状以外にはがきや手紙を出したことがない、というような人たちが、ほぼ毎日文書のやり取りを、しかも複数の人たちとする時代になっています。
ある調査ではオフィス・ワーカーは1日に120通のメールを受け取り、40通を発信しているそうです。それに加えてショート・メッセージをやり取りしたり、ブログを書いたり、フェイスブックやインスタグラムに写真をアップしたりします。わずか10年くらい前はWebで情報を見るだけだった私たちが、自ら情報を生み出し、発信しています。
いや、人間だけではありません。スマホや自動運転の自動車は、自分の位置情報を発信していますし、さまざまなセンサーが音や温度や振動などをデジタル化し、インターネット上にレポートしています。今や情報の40%は、それらデバイスが作り出しているそうです(図表1)。
そして仕事に関するものだけでなく、趣味や娯楽に関する情報も、プライベートなやり取りも、すべて1つのタブレット上で処理されます。まさに多種多様な情報源が、ひしめき合って私たちの貴重な注意力を我が物にしようとしているわけです。
このような状態をアメリカの社会学者、マイケル・ゴールドハーバーは「アテンション・エコノミー」と名付けました。インターネットによる情報の発信媒体が増加したことによる、「アテンション=注目、関心」の争奪戦という意味で使われます。
記憶のアウトソーシングが
とっくに始まっている
ちなみに現在のタブレットは、1970年代後半にアラン・ケイが発想した、大きな組織のためのコンピュータではない、個人のメディアとしてのパーソナル・コンピュータのイメージそのものです。それはフラットなディスプレイとフラットなキーパッドをもち、そのデバイスで子供たちがネットを通じて対戦ゲームをしている様子が描かれています(図表2)。
彼の描いたストーリーでは、このタブレットは、ゲームをしながら図書館に繋いで調べものをしたり、動画で宇宙の歴史を学んだりと、さまざまな用途でさまざまな情報を得ることができるメディア、つまりマルチ・メディアとなっています。まさに40年後の現在の姿です。
一方、「タブレット」という言葉の起源は古いものです。旧約聖書に出てくる「モーゼの十戒」で、神との契約文が稲妻で彫刻された石版がタブレットです。タブレットは神と人との間を取りもつメディア(媒介物)でもあります。
話が少し脇道に逸れましたが、アテンション・エコノミーの現象として情報が超過多になると、日々の生活や仕事中の注意力が散漫になり、じっくり考える時間やその習慣が奪われていく、と言われています。いつでもどこでも、どんな情報でも手に入る便利さがある一方で、批判的に物事を見たり、創造的に考えることができなくなっていくと指摘されているのです。さらに依存性が強くなり、個人の意思で選択をすることが少なくなる、とも言われています。
皆さんの周りを見てください。グーグルやSiriや、わが家にも去年やってきたアレクサが、声をかけるといろんなことを教えてくれます。ますます自分で考えることをしなくなります。記憶のアウトソーシングがとっくに始まっており、いよいよ思考のアウトソーシングの時代になろうかという危惧があります。
記憶することではなく、
答えを探し続けていくこと
そもそも何かを学んだり考えたりするのは、わからないことをわかるようにして、それ以降の同じ手間を省くためです。
たとえば「直角三角形の斜辺の2乗は他の2辺の2乗を足したものと等しい」というピタゴラスの定理がありますが、なぜそうなるのかをいったん学習したあとは、毎回自分で証明をしたりはしません。つまり、「学ぶということは考えなくなる」ということを意味します。多くを学んでいる人ほど、考えずに判断できる事柄が増えるということです。
現代社会では変化のスピードがさらに増し、複雑さの度合いが高まってきているので、働き続けるためには今まで以上の学習が必要になります。そうなると学ぶこと、理解することを自分以外のものに託すのが合理的になってきます。
SNSやさまざまなコミュニティの、いわゆる「弱いつながり」が広がるのも、他者の学んだことや考えたことのインプットとアウトプットにアクセスし、自分が直面していることに照らして参考になりそうであれば、数学の定理のように学習プロセスを検証することなく適用して、時間とエネルギーを節約できる側面があるからでしょう。つまり学習効率を上げているのです。よく学んでいる人ほど考えないで判断するスキルが高くなっているので、他人の知恵を利用する方法にも長けています。
その意味では逆説的な言い方になりますが、情報過多社会で他人の知恵を利用してよりよい判断をするためには、「考える」ことを鍛え続ける必要があるのです。あるいは、これからの新しい「学び」とは記憶することではなく、考えること、試行錯誤して答えを探し続けていくことなのです。
まずは学ぶことの
アウトソーシングを積極的に
情報の洪水のなかで人に左右されず、自分で納得のできる選択や決定ができる、自律的・自立的な人となるために、まずは学ぶことのアウトソーシングを積極的に行っていきましょう。
でも、少し待ってください。以前、「ロゴスとフィシスの旅」で検討したように、この世には大きく分けて2つの分野の学びがあります。
それは技術を身につける学びと、価値観や意味を作る学びでした。後者の、価値観や意味を作る学びを、いきなりアウトソースするのはちょっと危ういでしょう。価値観や人生観など、「観」とつくものは、物の見方や世界の理解の仕方そのものなので、一生磨き続け考え続けるものです。ですから前者の、技術に関するもの、方法、手段、正解のあるもの、機能に関する学びについて、他者の知恵を大いに活用していきましょう。
その場合にも、ハーバード・サイモンの警鐘を心に留めることが大切です。いくらマルチ・メディアになっても、私たちの脳はシリアル・デバイスであることに変わりはありません。1度にさまざまな情報を入れすぎないように、フィルタリングをすることが大切です。
サイモンの時代にはそれは大型汎用コンピュータのバッチ処理でした。今やそれが手元のスマホで行えます。さらに、日本マイクロソフトの榊原彰CTOが「マイクロソフトはAIを民主化します」と言うように、誰もが自分専用のアプリとして人工知能を使う時代がくるでしょう。そうすれば、生きるための技術に関する知恵を、AIを通じて利用できるようになります。それは、彼が考えた、情報のコンデンサーとしてのコンピュータの役目にピッタリ合っているのです。
言葉にできない違和感に
注意を向ける
技術的、機能的な学びをアウトソースできたら、そのぶんだけ考える時間が増えるのかというと、そうではありません。これまでの情報化社会の歴史が示しているように、ますます忙しくなることが想定されます。従って考える力を鍛えていくには、意図的に考える時間を作り、自ら考える習慣を身につける必要があります。そのためのチャンスはたくさんあります。
ダンシング・アインシュタイン(DAncing Einstein)の青砥瑞人さんによると、期待したことと実際の結果に差があるときに、言葉にできない違和感や、何かおかしいというシグナルを出すことがきっかけになって脳が働くのだそうです。そのときに簡単に理由を見つけたり、たいしたことじゃないとしてそのシグナルを見過ごしたりすると、脳は働きません。注意力を外部の刺激にばかり向けるのではなく、脳の働きや身体のメッセージに向けることを、まずやってみましょう。そのとき感じた違和感を、なんらかの形で表現することができると、身体が気づいた違和感の意味を考え続けることができます。
また、人は曖昧なものや、よくわからないことには関心を向けません。しかし何だか心に引っかかってモヤモヤしていることがあったら、そのモヤモヤ感を抱き続けましょう。あるとき、ハッと視界が開けることがあり得ます。
アメリカでマインドフルネスへの取り組みが広がり、日本でもグーグル式のやり方から座禅やヨガへの関心の高まりが見られるのも、考え続ける習慣の獲得として見ると、大きな潮流の表れであると思います。考えることが脳の論理的な機能だけではなく、感情や心の働きをも含めたものだとすると、座禅、作務、公案の問答など身体全体で考えてゆく、禅の修行などにも、これからの学びのヒントがあるのかもしれません。
皆さんも、内省と探求の旅に出てみませんか。
(*1) 『システムの科学』ハーバート・A. サイモン著、稲葉元吉・翻訳、吉原英樹・訳、パーソナルメディア刊(出版社サイトへ)
著者
片岡 久氏
株式会社アイ・ラーニング
アイ・ラーニングラボ担当
1952年、広島県生まれ。1976年に日本IBM入社後、製造システム事業部営業部長、本社宣伝部長、公共渉外部長などを経て、2009年に日本アイ・ビー・エム人財ソリューション代表取締役社長。2013年にアイ・ラーニング代表取締役社長、2018年より同社アイ・ラーニングラボ担当。ATD(Association for Talent Development)インターナショナルネットワークジャパン アドバイザー、IT人材育成協会(ITHRD)副会長、全日本能率連盟MI制度委員会委員を務める。
[IS magazine No.27(2016年9月)掲載]
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ロゴスとフィシスの旅 ~日本の元気を求めて
第1回 世界を主客一体として捉える日本語の感性をどのようにテクノロジーに活かすか
第2回 「Warm Tech」と「クリーン&ヘルス」という日本流技術の使い方はどこから生まれるか
第3回 デジタル社会では、組織・人と主体的に関わり合うエンゲージメントが求められる
第4回 技術革新と心と身体と環境の関係
第5回 忙しさの理由を知り、「集中力」を取り戻す
第6回 自分が自然(フィシス) であることをとおして、世界の捉え方を見直す
第7回 生まれてきた偶然を、必然の人生に変えて生きるために
第8回 人生100 年時代 学び続け、変わり続け、よりよく生きる
第9回 IoTやAIがもたらすデジタル革命を第2の認知革命とするために
第10回 デジタル化による激しい変化を乗り切る源泉をアトランタへの旅で体感(10月26日公開)
第11回 「働き方改革」に、仕事本来の意味を取り戻す「生き方改革」の意味が熱く込められている(10月27日公開)
第12回 イノベーションのアイデアを引き出すために重要なこと(10月28日公開)
第13回 アテンションが奪われる今こそ、内省と探求の旅へ
第14回 うまくコントロールしたい「アンコンシャス・バイアス」
第15回 常識の枠を外し、自己実現に向けて取り組む
第16回 人生100年時代に学び続ける力
第17回 ラーナビリティ・トレーニング 「私の気づき」を呼び起こす訓練
第18回 創造的で人間的な仕事をするには、まず感覚を鍛える必要がある
第19回 立ち止まって、ちゃんと考えてみよう
第20回 主体性の発揮とチーム力の向上は両立するか